母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

難しいから面白い。

最近つくづく思うのは、簡単とか楽とか、安易なことが良いことで、試練や困難や背負うことがひたすらマイナスであるかのような風潮に拍車がかかっているな、と。難しくて多くのものを背負わなければならなかったからこそ、これまで本当に美しい光景を見せて貰ってきたな、と僕は思っている。

すぐに出来る、簡単に出来る、それなら別にやらなくても良いのではないか。

 

本気で向き合うなら、どんなことでも簡単ではない。

 

ところで、外で障害を持つ人と出会うことが多い。

と言うより何か困っていて誰も手を貸さない場目に、あ、と思って声をかけたり、少し手伝ったりしているうちにお馴染みになった人もいる。僕はよく通りかかって手伝ってくれる人になっているようだ。

駅の近くで自閉症の人が何時も通る。

 

僕は言われる福祉の仕事をしているわけではなく、そう言った業界にも全く属してはいない。あくまでダウン症の人たちの持つ感性とその文化を守り、伝えていくのが自分達の仕事だと思っている。

 

ただ16の頃からずっと障害を持つ人達と身近に接してきたし、生活を共にした時間も長い。その経験から違和感を持つことが沢山ある。

 

20年以上も前から繰り返しみ見てきた場面。

最近も目にするけど、障害を持つ人に接する時に大きな声で話すのは嫌な常識になっている。耳が聞こえ辛い、と言うような物理的な問題でもなく。しかも耳の方だってただ大きな声が良いわけではない。相手を見ていない。大きな声でわざとらしく話された瞬間に心を閉ざす人を沢山見ては来た。でも大きな声あの変な声を出して話す人達は相手の表情もこころの動きも見えていない。

声だけでなく動作も含め、相手との距離を作るコミュニケーションばかりを行う。勿論テクニカルな問題もある。必要なスキルを身につけないで関わる仕事をする、と言う問題。でもそれ以前にはっきり言って心がない。

 

ただでさえ、人手不足、そして制度上の困難のある中で、こんなことを言っても取り合う人は少ないかもしれない。でも事実は事実として認識すべきなので書く。世の中に様々な仕事があるけれど、介護や福祉ほどにむいていない人達が働く現場も少ないだろう。人に向き不向きがあるのは当然。好き嫌いがあるのも当然。背適な人材が働かないでは良くなるはずがない。

それから車の運転にも免許がいると言う当然のこと。

しっかりした考えも技術も身につけないといけない、と言うことも知らなければならない。

 

共感しようという心の動かし方をしない人が、人間を対象にした仕事をしない方が良い。

 

あと、業界用語のように自然に「かたまる」、「固まってる」と言う言葉を人間に対して使うのもやめていただきたいもの。物とは違うのです。人間が固まることはありません。仕組みが違います。あなたにその人の内面の心の動きが見えないだけ、感じないだけ。いや、見ようとも感じようともしていないだけ。例え心の動きが鈍くなったとしても、止まってはいない。固まってはいない。その内なる動きを感じとる、聴き取ることこそが、今あなたがやるべきことではないのでしょうか。

 

先日、バスの前でずっと動けないでいる自閉症の人と手を引っ張っりなんとかしようと焦る支援者を見かけて、何気なく僕が肩に手を組み、「行こ行こ」と言うと何も言わず自分で歩いて乗りました。

誰でも出来ることではないし、何時でも出来ることではないけど、相手を生きた生命として、内面の動機を聴き取り、共感しようという姿勢は誰にでも必要なことではないだろうか。そして、それは生きること全般に言えること。

 

ちょっと今回のタイトルと違う話になりましたね。

でも人の心は分からない、分からないから、どこまでも面白い、と思う。