母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

特別編ブログ

今回は正式な告知もまだだったし、予約も開始していなかったので、母川回帰シリーズ第11回は延期することにしました。

 

延期が決まって、あっ、と気づいたことがある。4月27日は恩師宮嶋真一郎の命日だった。話そうと思っていた内容が、これまで正面から取り上げなかった福祉のことであったり、これには何か大きな計らいを感じてしまう。それなら、延期にも何らかの意味があるはずだ。

 

これで良い。腰を据えて語るべき内容でもあったから。

 

ここで初めて展開しようとした、×ない(掛けない)福祉論は、ある意味で宮嶋真一郎論でもある。

 

このテーマは最近ますます、今の社会でこそ語られる必要を感じる。

 

ウイルスについても考えていた。人間社会にとっての有用、無用とのつながりでも。

自分を含めた、何かや誰かを守るために、別の何かを排除せざるを得ない、と言う生命の仕組み。そこまで掘り下げなければ、本当のところ多様性などと容易く言ってはいけない。ある程度の排除は仕組みに含まれている。ただ恐ろしいことは、排除は暴走する、と言うこと。そして暴走した排除、潔癖症は、それが正義であるかのように、どんどん大きく力を持ってしまう。

 

人間にとっての根本的な、多くの場合は目を背けられている、このテーマを正面から、生活を通して、掘り下げて行くこと。宮嶋真一郎はそう言う実践を行ったのだと考える。

 

その思想の精髄に触れようと思ったら、それははっきり言って、毒にも薬になる。

世間の常識はここでの非常識。ここでの非常識は世間での常識。そんな世界でもあった。

もちろん、今でも僕はその全てに共感している訳では無い。どんなものにも、どんな人にも矛盾する側面がある。大事なことは両面ともにしっかり見て行くことだ。

 

宮嶋先生の思い出の一つ。衛生に関してはかなり極端、過激な思想だった。0157が流行った時、親方はここではそんなものは出ないと言い切った。その後も行政とのやり取りとか、まだまだ色々あったけど、これ以上はここでは書けません。

 

介護の仕事していた人が、メンバーとして入ってきた時のこと。食卓にハエがたかっている光景に眉をしかめ、暫くの間、その人はハエ取りをずっとしてたのだけど、親方に、ここに来たらハエとも仲良くしてくれよ、と言われていた。まあ、言われなくても、数日で諦めざるを得ないのだけど。

 

ここでは書けないけど、宮嶋真一郎と言う人は表面的なこと、上っ面、きれいごとを嫌っていた。その思想はいつでもスレスレの、ギリギリのものだったし、矛盾もしていた。でも、そこにこそ力があったし、真実があった。一言で言うなら、受け入れる力、受容することは、何処まで可能なのか、と言う挑戦。認めることによってしか人は変わらない、と。愛と言う言葉でそれは表現されていたけれど、実際には言葉で言うほど容易くはない、命がけの挑戦が必要だと考えていたはずだ。

 

まざまざと見てきたからこそ、今でも僕は現場で考えている。言うか、言わないかではなく、やるかやらないかだと。やれるのか、やれないのか、。挑戦を続けるかどうか。

 

恐れと不安に負けて、排除の原理に支配されてはならない。時に受け入れることは極めて困難なこともある。生きるためにやむを得ないこともある。それでも、受容する力、認める力を何処まで発揮できるか、諦めず、挑戦して行った所でしか見えないものがある。

 

人間は危機に瀕した時、力を合わせて一つになることも出来る。でも一方で危機に瀕した時に排除の原理が強く動き出してしまう。命の選択と言う思想もそこから生まれる。自分は、自分達の社会は何を選び、何を切り捨てているのか、そこに敏感でいなければならない。一つの選択は必ず何かを排除した結果となる。それ自体がいけない訳では無い。リスクは受け入れていかなければならない。ただリスクは自覚される必要がある。

 

どんな枠からも漏れてしまうものがある。

そこにこそ目を向けることが、×ない(掛けない)福祉だと僕は考える。×(掛ける)ことで得られる多くのことと、×る(掛ける)ことで失ったり見えなくなったりする多くのこと。そこに敏感であること。そして、むしろ見えなくなってしまうものの方にこそ、目を向けて行く。それが×ない(掛けない)福祉だ。それはその場に踏み留まると言うことだ。人間の営みは踏み留まる訳には行かないだろう。たからこそ、踏み留まることが出来る領域を、何処かには残しておかなければならない。踏み留まることが可能な場所があるからこそ、踏み留まることなく進んで行くことも出来る。全ての領域が踏み留まることを避けるなら、それは恐ろしい結果となるだろう。踏み留まるとは、変換しないこと。ありのままで認めること。踏み留まる領域。それが福祉の本質だと考える。

 

4月27日、宮嶋真一郎の命日に、語ろうと思っていた内容の触りの部分だけですが、特別編として書きました。

ここに書けなかったことと、より普遍的なアプローチで捉えた世界を、更にその先を。いずれお話しましょう。