母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

YouTuberと酸っぱい珈琲

「YouTuberと酸っぱい珈琲」
久しぶりにちょっとだけほろ苦な話を。あんまり甘いものばかりだと身体に良くありませんから。いや、もう今回くらいで、これからは長文は書きません。そろそろね、終わりとします。最近もアウトサイダーアートだとか、アールブリュットだとかと言う言葉が一人歩きしている、と言うのか、まあ見ていて狭い界隈の中が殆どなんだけど。最近は商品化の流れが目立って来てて、もちろん良い部分も沢山あるし、これまで問題点は指摘して来たので、僕ももう言うことはない。ただね、現場と言うものがあるのか分からないけど、現場の声がもっと出て来ないと、ね。言葉の選び方がね、制作や制作者に対しての本来のリスペクトに欠けるな、と感じる。プロデュースする側が主体だと、自分たちが作った売る仕組みやコンセプトの素晴らしさ、みたいな変な話になって行く。問題点はもう何度も話したけれど、それ以前に言葉も虚しいし、芯が無い。作品の商品化に関しては、始めの流れを創って来たのは僕らでもあるので、多少の責任も感じている。まあまあ、今日はその話ではなくて、それも含めて物も人も薄っぺらくなって行く世の中に、このままじゃいけないって話で。
当たり前過ぎるけど、ほんの少し前まではこうやって、こんなところに文章書いて、それを上げて何処かの誰かが読むとか、そんな世界は無かった。良かったこと、悪かったこと、変化して行くことに無自覚であるなら、知らないうちにヘンテコな場所に連れて行かれる。今はそんな時代。気がつかなければそこまで。でも、身体も心も、何か変だよね、って感じていたりもする。自殺率だって一向に減らない。命の実感は何処にあるのか。
いや、心配になるのは、こうして今みたいに危機に直面した時にね、これまでやって来たこととか、今の仲間とか、繋がってくれてる人達とか、想う対象とか、いっぱい自分の中にあって、どんなことになってもでも生き抜こうって、いつでも思っていられて、色んなことに想いを馳せて、でも幸せだなぁと実感した時に、こうなっても幸せでいられるのは、何のお陰かなって言うこと。それは、単純にベースがあるから。元がね。元になってるもの。土とか大地みたいなのが。そういう土台がどうやって創られたか、育てられたかって言ったら、実地に何かを続けてきたと言う、その時間と経験によって、なんだよね。
僕も子供たちは現在進行形で育って行っている期間。これから色んなことがある中で、やっぱり土台をしっかり創って行って欲しいと思っている。
良く言われることだけど、変化の中で必要なことに、対応力だとか柔軟性が大事なのはそれはその通り。でももっと大事なのは、見極める目を持つこと、とか尺度、基準を持っているのか、と言うこと。それは、さっきいった土台からしか出て来ない。
これまでの流れで行けていた数十年は、割合に古いのが粗末に扱われたし、便利さや簡易さやスピードが最優先だった。でもそれらは全て土台としては弱い。だから更なる変化を前に立ち止まらざるを得なくなった今、土台を見つめ直した方が良い。
軽量化一本槍で落としたら壊れる物と同じ。今落とすことが日常になって来るから、とにかく丈夫な方が良いです。言葉も思想も軽くなって、芯が無くなって、これじゃあここから先は弱い。
掘り下げて行くと色々言わなければならないことはあるけど、簡単に一つのことだけを。とにかく何かを徹底的にとことんやる、と言う経験が必須。幅広く色んなことをちょっとづつ、みたいなことが良しとされているけれど、まあそれでは土台が創れないと、そろそろ気づかなければ。それやってみた結果が出ている訳ですから。
何か一つやっていれば、それだけやり続けたと言う経験があれば、他のことも判断できるし、分かる。若い頃は、極めた人の言うことしか聞かないでおこう、と生意気な考えを持った時期があった。でもそのお陰で出会えた人や教えられたことは沢山ある。とことんやらないと、やり抜かないと見えないものって、これは確実にあります。まずそうやって土台創って一人前になる。これが基本。成人の日にこれ書こうかと思っていたテーマでもある。
経験できるものとか、与えられるものの次元が違って来るから。駄菓子食べるか、洗練されたフルコース食べるか、くらい違うから。思っていたものとぜんぜん違ったけど、願っていた方向とぜんぜん違う形になったけど、思いもよらない形で全部が手に入った、って言うそんな経験がある。とことんやったなら。10代の頃のこととか、先生たちのこととか、色々エピソードがあるけど、ま、こんなところにしときましょう。珈琲飲み歩いていた頃のことだけ。1人の筋金入りのマスターに出会って、彼が自分もまだまだ知りたいと言った。珈琲屋見つけたら教えてくれや、と。良いとこあったら行くから、と。どんなところが良いか、と聞くと、ジジイがやってるところや、味なんかどうでもいい、上手いか下手か、そんなことは分からない、長い間只管、ずっとやって来たジジイかどうか、それだけ、と言った。確かにそれは一つの基準かも知れない。やらなければ見えて来ないことがある。それは時間だけでは無いところが難しくもあるけれど。

 

あ、タイトルの言葉が最後まで出て来なかった。説明的になっちゃうけど、「YouTuberと酸っぱい珈琲の時代に」ですね。