母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

またも緊急事態宣言

また緊急事態宣言ですね。

皆様が心身ともにご無事でお元気でありますように。コロナに関しては最初の頃にずいぶん書きましたし、これは今もう何を言っても始まりませんから、ここは何とかみんなで生き残るしかないですね。僕らも志摩での生活リズムがやっと形として見えて来たな、と言う段階でした。僕が1回外で働いて、まずは生活のベースを作り、よし子はダウンズタウンプロジェクトを担当しつつ、月一度は東京でのワークショップやイベントを、と言う予定でした。しかし、この状況では東京でのワークショップは暫くは延期するしかないですね。それでも、次の準備をしつつ、希望を必ず発信して行きます。

 

今の社会で一番心配なのはコロナ以上に経済の問題です。仕事を失う人達、食べて行くことが困難になって行く人達が沢山います。これをまず第一に考えて行かないといけないですね。残念ながら世の中を中心になって動かしている人達は貧しさが何であるか、飢えると言うことがどう言うことなのか、経験がないのです。想像力もない。

貧しさとは恐ろしいものです。大人が貧しくなるということは、そのダメージはそのまま子供へ行きます。子供にとって貧しさは自分の力ではどうすることも出来ないもの。

 

今でも僕は、人が冗談で言う家貧乏だから、と言う言葉が好きではありません。貧乏ってそう言うことではないから。そして、食べられないと言う経験も無く、それを精神とか心の問題だと奇麗事を言う人も嫌いです。

貧しさは人の心を蝕みます。これが一番恐いことです。

 

僕が子供の頃は、お腹を空かせていないことは無かったです。こっそり大人に話を聞かれたりしました。児童相談所とかそう言うところの人達ですね。虐待はないか、とか家の中はどうかと言うチェックもありました。食べられているかよく聞かれました。食べてるよ、と答えてますけど、そんなことが本当だとはその大人達も思っては無いでしょう。でも生きてればそれ以上は突っこんでは来ませんでしたね。他の仕事も沢山あったでしょうし、深入りすれば大変な問題がありましたしね。まあ、もちろんそれ以上近寄るなよ、と言うオーラをね、こっちも出してましたけど。

学校行くとお弁当の時間はスッとトイレ行って、いつの間にか戻って来る訳です。食べて無いんですね。それを誰にも気づかせない。

落ちてるもの食べたり、虫だって食べましたね。パチンコ屋で誰かが飲み残した缶ジュースを飲むんですけどね、何時だったかその中にタバコの灰が入ってて、これを吞んじゃって、この時は結構大変な目に遭いましたね。

でもね、そう言うね、食べられない、お腹が空いてる、物が無い、着る服もない、ってそんなことはね、実はその現実の中にいれば何でもないことです。経験すれば分かります。それが現実なら、別になんとも思わない。

何が辛いか、と言ったら人が苦しんでる場面を見ることなんです。周りが笑顔も無く、心が枯れていく場面をね、本当に何度も嫌と言うほど見せられる訳で、これが辛いんです。子供にはどうすることも出来ない。この無力感が心を破壊して行きます。

僕自身はここから抜け出しました。でもここで折れてしまった人達も沢山います。そう言うもの見なければいけなかった。

誰にももうそんな想いをさせてはならない。

社会はそのためにあるはずです。

 

そして、もう一つ。これも何度も書いています。非接触。これもまた子供達から、本来養われるべき信頼感や肯定感が育ちません。この弊害を大人は真剣に考えて行かないとなりません。接することで人は人になります。年齢が低ければ低いほど、重要度は増します。

距離と言うのは密接があって初めて、適切に作ることが出来ます。大人の視点だけで子供をみることは危険です。もちろん大人にとっても今の非接触のダメージは知らず知らずの内に心を蝕んで行きます。

 

ただでさえ、文明は如何に接しないか、と言う方向で発展してきてしまっています。これ以上の非接触は危険です。

実際のところ、接しないで成立しているものなんて、ほんの僅かなことです。これも繰り返し言ってきたことですけど、誰かがやってるから出来てるんでしょ、ってことです。

成功者とか、有名人とか、お金持ちって言うと、それだけで尊敬する人がいたり、みんなそうなりたいと思ったりしますけどね、これは物理的なことで誰でも分かることですよ。下がなければ上なんてあり得ないことですよね。簡単な話で言ったらお金出して肉買うけど、誰かが採るなり育てるなりして、誰かが捌いたから食べられる訳ですよね。全部そうなんです。誰かがやってるから、やらなくて良い世界もある。勝った人は負けた人がいるから勝てたのでね、これ本来は全く偉くなんかないし、まして威張れるようなことではないんです。こんなことは当たり前ですよね。

何かの仕組みで上手く行ってる人は、その仕組みを成り立たせるのに、下にどれだけ人が居るのか考えて感謝して、時には還元しないと駄目なんです。

 

接触の話をしたので、ちょっとだけ話しは逸れますけど、精神障害の方の施設で働いている人の話で、毎日怪我が絶えないなんて言うんですね。こう言う場所もね、今だってあるからこそ、世の中まわってるんです。

あ、でも更に言うとですね。これだって僕なんかからしたら守られた場所ですね。だって僕が立ってた頃の現場なんて、相手を怪我させないのは当然、自分も駄目、そして周りで一人でも怪我したら即アウト。次の現場は無い。やらせて貰えない。そう言う、一瞬のミスも許されない現場がありました。何せ守られて無いんです。こちらにはなんの経験も資格も無い訳ですから、それでこのままじゃ駄目なんでやらせて、ってことですから。失敗したらそらみたことか、ってなりますからね。そう言う目で見られている中で、正解も無いかも知れない、不可能かも知れない、でも出来ますよ、この人大丈夫なんです、って言い切って、目の前で見せなきゃ、次の仕事はない。こっちの仕事無くても良いですけど、目の前にいる人が連れて行かれて、まあ、縛られて、注射されて、薬漬けになって、廃人同然になるなんて、出会ってしまった以上は許せない訳です。そんな勝負の現場ですよ。ノーミスでも上手く行く保障なんて無いんです。命懸けなんてよく言って来ましたけど、正直なところ自分の命賭けただけじゃ済まないですから。僕の命あげたって何にもならないどころか、例えば本当にこちらが死んだらそこに至らせた人も組織も犯罪になっちゃいますからね。それだけは避けなきゃいけないんですね。

まあ、でもでも、受ける、受け止めるって本当に大事なことではあります。そこで人は確実に変わりますから。受け止められた経験は大きいです。

 

これは、例えば殴りかかって来る人がいますね。病気の人の場合、これ力の入り方がね、違いますから、とんでもない力が出ますから、たがが外れると言うか。だから危険なんです。受けるなんて絶対駄目です。でも、あえてですよ、そんな中でもちょっと違う時があるんです。あ、これまだ試しだなって時が。これは瞬時に感じますから、考えてたら間に合いませんよ。そう言う時は受けるんですね。もちろんちょっとだけ逸らすって言うか、流れに任せるんですけど、そうするとね、これ身体と身体の対話なんで、言葉なんかより遙かに情報量も多いし、お互いが敏感に感じ合ってますから、あちらもね、ん、なんか違うなって分かるんです。あ、これ殴らせてるなって。そうすると、次はほんのちょっと、遅いのが来ます。殴るからね、って分からせて、来る感じですね。だからね、良いよ良いよって、誰も殴らせてくれないんだったら、僕が幾らでも今日はやらせてやるからって。これは全部ね、体で話してる感じですかね。だからね、力も弱い。もう気を遣って殴ってる。ごめん。みたいな。もうやめるわ、みたいな、ね。でも、いやまだだよね、って。終わらせないとまたやっちゃうよね、って。で、もう殴れ殴れ、ってやっていって、殴り疲れるんですね。そうやって殴らせてあげたら、もう凄い関係になりますから。僕と会っただけで、目を合わせただけで、あ、ヤバい、ちょっとちゃんとしよ、とか。しまったバレる、みたいな感じでね、笑ってくるんです。でもね、信頼感って言うか、やっぱりちゃんと受け止めてくれたよね、話してくれたよね、って言うのがお互いあるんです。

 

こう言うピンチにある人達だけじゃないですよ。子供時代を含めて、人は密接に接して、接触して初めて育つ。そこで距離を感じ取ることも出来るようになります。デジタルにばかり囲まれがちな現代社会において、このコロナ渦はますます人と人、人と世界の間に不信と不安を生み出しています。そこで言葉だけ奇麗なことを言っても溝はますます大きくなるばかりです。直に接する機会を、人であれ自然であれ、触れる切っ掛けを一つでも多く創るように、これまで以上に気をつけて行くべき時です。

 

かなりの濃厚接触の話となってしまいましたが。