母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

僕の学校

昨日は絵本「学校つくっちゃった」のことを書いた。懐かしくて、思い入れもある本ではあったけれど、改めて見てみて、凄い実践だったな、と。

みんなと創った学校。

 

今日は僕の学校について書こうと思う。

学びの場はどんな人にとっても、自分を創って行く大切な場所。

僕にもそんな場所は確かにあった。

子供の頃、学校へは週3、4日行けば良い方で、1日も行かない週もあった。

学校へ行く目的は給食だった。だから中学はますます行かない。給食ないから。

 

食べてますか、と聞きに来る人がいた。

時に児童相談所だったり、学校の先生だったり。でも、問題を解決する覚悟なんて大人にはないことくらいは、直ぐに見抜くことは出来た。

 

貧しかった。いつもお腹が空いていた。

 

でも今でも実感するけど、そんな時に手にして幸せだと思えたのは、食べ物ではなかった。学びだった。図書館であったり、こっそりただで見せてくれた映画館であったり、お寺であったり、可愛がってくれたオネエサン達の経験談であったり。

 

本や音楽から、僕はどれだけのことを学んで来ただろうか。ありきたりのことを言うけど、本は読んだ方が良い。本物の音を聴いた方が良い。若い内に。電子メディアは味の素みたいなもの。食べたければ、大人になってから。まずはベースを創らないと。

 

お金が無くても教えてくれる人は沢山いた。

 

それでも、本当のところ学びにはお金を掛けなければならない。それはもうその頃から直感していた。中学校を出た直ぐにお寺に入って、その年に共働学舎にも出会っている。その数年間は放浪していた。どの場所も出たり入ったり。各地の職人さんに会いに行ったり、本当に色んな人に会った。

住み込みで働いたのは滋賀県だった。そこでの仕事によって、恐らく僕の人生にとってお金を1番自由に使える時期がやって来た。

学びに使う為に、ある時期は徹夜で働いた。

僕にとっての学校は寄席であり、コンサートであり、レストランであり、人間の素晴らしさを見せてくれる様々なパフォーマンスやショーだった。そこには演者達の血の滲むような努力と、迸る才能と、夢と愛があった。

この世の中には本物と偽物と、そしてまがい物がある、その違いを見極める目を持つことの大切さを、思い知らされる日々だった。

 

どれだけの本を読み、音楽を聴き、寄席やレストランにどれほど通ったことだろう。

そしてまた徹夜で働きに働いた。

そうやって僕の10代は過ぎて行く。

 

物は消える、時と共に。ただ経験だけが、錬磨され、純化され残って行く。自分の芯に。

見てきた、見せて貰って来たことしか、人は出来ない。学んでなければ、自分が見せて行くことは出来ない。

 

だから、学校は誰にとっても必要。

だけど文部省が作った場所に、その人の学校があるわけではない。学びは自分で創っていくもの。若い内は命懸けで。

 

工場以外何も無い、労働者以外誰もいない、そんな場所に僕はいた。工場と寮の往復だけで終わる毎日があった。確か本屋は駅の近くにびっくりするほど小さなのが一軒だけ。

初めてその町に来た時、何故か買った1冊が安部公房砂の女。小説に描かれている景色とその頃の自分が目にしている世界が一緒だったのを深く記憶している。不毛に降り積もる砂を毎日、ひたすら掃きだすだけで、また次の日にも同じ労働が待っていた。

でも、僕にはその後のものがあった。学びと言うものが。行くことが出来る場所が。一時でも夢を見せてくれる人や、奇跡のような瞬間が。

 

僕が制作の場や、トークの舞台に立つ時、必ず心に誓うのは、この時は今しかない、と言うこと。一期一会。来てくれた人達を笑顔にすること。一人一人の人生が輝くように。


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