改めて、制作環境について。
もう何度も書いて来た。
これも当たり前の話だし、繰り返したくない。
でも今でも、曖昧になっていたり、
いい加減な認識の人達がいる。
それにこれだけ騒がしく、
色んなことが語られるようになったのに、
未だに誰一人、話題に出さない。
世に言う障害者アートだとか、
アウトサイダー、あるいはアールブリュット、
他にも様々な名前で呼ばれるジャンルがある。
それらについても、もう何度も書いて来た。
あまりに見ている地点が違い過ぎて、
もう語ることはない。
積極的に情報を入れるわけではないのに、
僕のところには自然に情報が入ってくる。
話に来る人が沢山居るから。
これだけ様々な試みが騒がしくなっていながら、
制作環境について、全く議論されていないのは、
危なっかしくて見ていられない。
嘗て、精神障害を持つ人達の作品が中心だったころ、
その作品の殆どは、制作者の意図以外入らない、
一人だけの環境で描かれていた。
それも過去の作品が多く扱われていたから、
まだまだこう言う議論も必要性が低かった。
厳密には様々なケースがあって、
この時点で本来なら議論されるべきことは、
本当に多くあったのだけど。
でも、現在は知的障害を持つ作家達が、
描いた作品が多く扱われている。
ここで大事なことは、
彼らの多くが、何らかの用意された環境で、
誰かの見守る中で制作している、
と言う事実。
そして、彼らは環境や人に、
影響を受けやすい存在だということ。
ここでは特にダウン症の人達のこと、
を中心に考えている。
外に出る作品を見て、
それらのものが本当に相応しい環境で、
描かれたものなのか、疑問を抱かざるを得ない。
制作環境が大切にされていなければ、
結局は枯れていくし、
心の活力が失われて行く。
このことを軽くみてはならない。
一人の人間の命を見つめる行為なのだから。
もう一つ。こちらはそこまで危険ではないけど。
個人で描く作家で、外で紹介される作品を見ると、
精神的に調子が良くない時に、
出やすい作品の傾向が伺えるものが多いことも、
あえて指摘しておきたい。
これは勿論、個人が描き、発表することを、
否定しているのでは全くない。
ただ、そこで心を拾い取れ、
響き合える存在がもしいたなら、
作品ばかりで無く、作家の幸せと健康に、
より多くの可能性が生まれる、と言うこと。
作家達が本来のリズムで、心の充実の中で、
描かれたとき、
彼らの本当の素晴らしさを、
見る人に知って貰うことが出来る。
現在のように、描かれる環境も、
寄り添う人間も問われず、
ただ描かせれば良い、と言う流れは、
作家達を傷つけ、萎えさせて行く危険性がある。
このことだけは責任上、書く必要を感じた次第。
補足だけど、
時々質問があるので書きます。
そのような環境を周りが整えなければならないなら、それは芸術とは呼べないのではないか、と言う問いがあります。これについては、まずは、ではその芸術とは何を意味するのか、とか、本当にオリジナルなものがあり得るのか、とか根本的に問い直す必要があります。僕なりに答えはあります。いつかその辺りまで議論が進むことを願っています。