母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

なぜ質に拘るのか。

他に適切な言葉が思いつかないので、こだわると言う言葉を使ったけど、本当はあまり拘りは良く思わない。

まして、こだわりの、なんてそれを売りにされてはたまったものではない。

当たり前だけど、拘りが売りになるなんて恥ずかしいことだ。

 

いや、話が逸れてしまったので、戻そう。

そんな時だからと、なり振り構わないとか、それは良いけど、と言うか仕方ないけど、質は後回しってなってはお終い。

むしろ、逆だと思う。

こんな時こそ求められるのは質。

 

バーチャル美術館、オンライン授業、テイクアウト、その他、色々ある。

生き残るためのギリギリの選択であってそれは決して否定しない。さらに、そこでかなり質を追求している人もいるだろう。

 

ただ、忘れてはならないのは、代用品では済まされないものが沢山あると言うこと。

 

どさくさに紛れて、と言っては言葉が悪いが、この流れの中で質を問わない文化が根付くことが要注意だと考えている。

 

良いものが消えて行ったり、良い店が潰れて行ったり、そして、生き残るために、時代に合った形態に変えます、なんてことがどんどん進行している。そこで、時代に合わないと切り捨てるものが何なのか、しっかり見て行かなければ取り返しがつかなくなる。

 

もちろん、それは仕事にもよるけど、生き残ることがゴールではない。生き残ればそれで良い訳では無い。この意味は伝わり難いことは分かっているけど。

 

文部省がこの期に及んでまで、対面の授業でしか単位をあげない、と馬鹿なことを言っている。こう言う策無しの体制に抗議するのは当然だ。ただ、それでもなお言うが、対面でしか教育など行えない。これは確実なことだ。ここでは学校とか、授業とか、単位の話をしている訳では無いし、文部省なんてろくでもない組織のことを話題にしている訳でもない。教育について言っている。それは人と人が対面でなければ行えない。

 

まず、工夫やアイディアで改善出来ることはとことんやった方がよい。

でも、そう言うもので触ってはいけないものもあることは知っておかないと。

 

その内に、健康オタクや節約術と同じで、どんどんそれ自体が目的にすり替わって行く。

 

生きてはいるけど、何も無い世界が待っていたとしたらどうだろう。

 

点滴打ってれば食べなくても生きて行けるとして、本当にそうしますか。

 

何かの代用、何かの代償で済ませて行くことに無自覚になると、人間や生命さえも取り替え可能なものとなっていく。近代社会はこの方向で歩んできたのだが。この時間、この瞬間、そこに居る人、そのかけがえの無さが薄れて行く世界。

 

なぜ質を追求するのか。

手間も時間も、頭も身体も、それ以上のものも、命を注いでまで、質を、クオリティを追求していくのか。

それはシンプルだ。

受け取る相手が、かけがえのない人間だから。

 

僕もこの人生でどれだけ、偽物、下らないもの、がっかりさせられるものに触れてきたことか。時にそれがほとんど日常にさえなりかけたこともある。美しくない絵や音楽や映画、不味い食べ物、この世の中はそんなものに満ち満ちている。本当のものを探すのは大変なことでもある。

 

ある時、美味しくないチョコレートを食べながら、ふとこれは駄目だと感じた。作る方も食べている僕も。それは何か冒涜ではないのか、と。世界を、生命を馬鹿にしているのではないか、と。

 

もちろん、そこまで極端なことをいつでも思う訳では無い。そして、そう言う安易なものもこの世の中には必要だと思う。僕もそう言う場所にいることも多い。

 

でも、だからこそ、代用ではないもの、代償でないもの、そう言うかけがえの無いものが消えて欲しくない。残さなければならない、と思っている。そう言うものに敬意をもつべきだと思っている。それは責任でもある。

 

世の中フェアじゃないのはずっとそうなのだけど、この今起きている困難もそうで、言わば高層マンションに浸水していくような感じだ。下から溺れて行く。上の方では呑気な人達はまだいる。

 

そして、ここで書いて来たことで言うなら、代用品を売っている人達の方がシステムを変える時にダメージが少ない。言い換えるなら、システムの変換に対応出来ない、し難いところの方がかけがえのないものを作ってきた場所でもある。

 

変換可能なものを否定している訳でも、攻撃している訳でもない。上層階の住人を非難するつもりもない。たとえ一部の人でも生き残ることは良いことだと思う。

 

ただ、こう言うことには自覚的でありたいし、出来ることなら、みんなの力で失いつつあるものを守るべきだと思う。

世界全体にとって、それはあまりに大きなことだから。

 

翻って、自分の生活と仕事を考えると、皆さんと同じ、僕らも生活はしていかなければならない。子供もいる。だから、食べて行けることを実行して行かなければならない。

だけど、仕事の質は落とさない。

 

繰り返すけれど、質の高いもの、良いもの、美しいものをしか提供しない。何故なら受け取る相手がいるから。その人は唯一無二の交換できない、かけがえのない存在だから。

 

質、クオリティは手渡す相手への愛の証だから。そう、あの瞬間に、あの時チョコレートを食べながら感じたことだ。美味しくない、と言うことがイコール愛が無い。人と人が繋がらない、自分にとっても相手にとっても、この生命体にとって、それは良くないことなのだ、と。

 

僕はいつでも思ってきた。受け取った人に感動を、と。夢を、と。生命の高揚感を、と。

人の喜びに繋がるからこそ、命を注ぐ価値がある。クオリティを追求すること、高い質のものを提供すること、それは愛の証であるはずだ。