母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

感じる世界

こんなこともあった。

三重アトリエでは普段は制作の場に僕が入ることはない。少し前に来てくれた作家が2日ほど制作したが、なかなか心の動きが出て来ていない、と言うことで、よしこからちょっと難しいケースだからあなたが見た方が良い、と言われて、僕が場に入ることに。

 

本人に今日は僕と行こうと言うと、笑ってうなずいてくれた。その時に大丈夫そうだな、と感じる。それからアトリエに入ってテーブルにあった棒を紙の前まで持って行って、コロコロ転がしだしたので、パンを捏ねてるね、と言うと何度も嬉しそうに頷いた。

棒を手から離したので、じゃあ持っとくね、と言って受け取る。

 

白い紙を少し見て、それから筆をとった。よし、行ける、感覚が動き出している。すんなり1枚が仕上がる。次が本番かな、と感じる。恐らく今のベストな気持ちが絵に乗りだして2枚目が終わる。出し切った、と言うのがお互い分かったから、制作の時間は終わった。

 

たったそれだけのこと。しかし、作家も僕も全てをこの瞬間に出して、出し切っていた。

 

東京アトリエのスタッフは何度も見てきたことだけど、心の動きが出なくなっている人、感覚反応が鈍くなっている人で作品が出づらい時、なかなか描かない、と言う時に、僕が一緒に入って、すっと自然に描くと言う場面はよくあること。

 

仕組みは僕には分かる。説明は出来ないことだけど。

ただ言えることは人は感じる存在だとうこと。言葉も説明もなく、感じて居る方が先だし決定的だと言うこと。本人が行けると思ってくれればいい。描こうが描くまいが存在丸ごと、受けとめて、響き合っていたら、それは感じているから。心は動き出さずにはいられない。そこへ行くまでの時間にはそれぞれの条件が勿論ある。

 

感じる存在だと言うことは、感じてしまう存在だと言うことだ。感じてしまう。だから人は難しいし、だから人は素晴らしい。

 

何かをする前から既に人は感じている。

その前提を認めるか認めないかが決定的な違いとなる。


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