奇跡の光
このブログのタイトルが母川回帰。
今年はこのテーマを深く意識してきた。
回帰と未来に残すこと。
今の生活は三重半分、東京半分。
制作の場に立つのも以前の半分以下。
限られた時間で、でもやはり場に全てを賭けてきた。
自分が居ない間にどうしても、作家達には癖が残ってしまうから修正したりもする。
使うエネルギーはもしかしたら今が1番かも。
場は原点。ここから受け取ったものから、今やるべきことも思考していく。
魂を込めて挑んで、全てを捧げる。持てる力は全て使い尽くす。そうやって初めて一人一人から喜びが溢れ、自発的創造性が満ちてきて、みんなで響き合える。生命の力が漲る状態で帰って貰いたい。その時には気づかなくても、心の深い場所に何かが残って、いずれそれが実を結ぶように。
場を後にすると、自分には何も残っていないような、空っぽになったような、魂がぬけたような感じになる。全てはあそこに置いてきて、僕はもぬけの殻。この感覚は心地良い。
場と出会った頃からずっとそうなのだけど、一つ一つの場は確かに過ぎ去って行ったのに、その瞬間が永遠に存在していると感じる。場に深く集中する時、この瞬間の永遠性が見える。場は過ぎ去っている。僕は確かにここに帰って来ているけれど、でもまだあそこにいる。確かにあそこにいる。永遠。そこには永遠がある。場に入る時に感じるのもそれ。僕はずっとここにいたな、と。場はずっとここにあったな、と。
場を経験すると、時間と言うのは本当は存在しないのかも、と思えてくる。
上野でフェルメールを見た。以前、東京都美術館で見た記憶も鮮烈に残っている。なんと美しく、なんとミステリアスな作品だろうか。あまりに静かで、あまりに魅力に満ち、そしてやはりあまりに謎である作品。
会場を後にしても、あの作品たちが目の前にちらつく。何度も何度も頭を過ぎる。あれは一体何なのだろうか。フェルメールは光を描いた。あの静かで神秘的な光は何だろう。あの光は生命体の奥にあるものを捉えている。あの光を通してフェルメールはなにを見たのか、見ていたのか。時間が消える場所を。恐らくそう言うことだろう。フェルメールが見た場所。そこにはあるのは時間の停止。あるいは時間の消失。
もうここには時間は存在しない。
場が見せてくれるもの。帰る場所。母川回帰。
そこには全てがあって、そこにはみんないる。
何もかもがここにずっとあった。完璧な世界。
僕らはずっとずっとここに居た。これからもずっと。
永遠が実在するものだと言うことを、フェルメールは描いた。場もまたそれを見せている。