母川回帰

ダウン症の人たちのためのプライベートアトリエ、元アトリエ・エレマン・プレザン東京代表、佐久間寛厚のブログです。日々の制作の場で人間の心と創造性の源を見つめています。

いくつもの世界

多様性と言う言葉の記号を超えた、本来の意味を話したい。

世界は一つではない、と言うことを。

ずっと前から、これまで何度も言ってきた。

読んで来た人達は知っている。

 

昨日、たまたま読んだ記事のこと。

ある人が書いていた。

障害と言うものはなく、違うように見えている人達がいるだけだ、と。

それだけでは浅いけれど、それは正しい。

その通り。

ただ、認識として幾つか甘さもある。それが間接的にどんな間違いに繋がるかも書こう。

劣っているのではなく、別の見え方をしている人がいる、と言うこと。それから、これを引用している人が、新しい発見かのような大袈裟な書き方をしているが、これはその人が勉強不足だからだ。

その見解自体は斬新なものではない。

とっくの昔にまず僕が言っている。

やや角度は違うが他の人も言っている。

探せば直ぐに出て来るだろう。

 

それが言いたい訳ではないが、寄り道ついでに、これももう1度だけ振り返って、ここに証言として残しておきたい。

僕は時々、開拓と言う言葉を使うし、自分のしてきた仕事をパイオニアと表現することがある。

これも既に何度か書いた。

つまり先ほど言った、違う世界を見ている。

違う風に見えている世界の存在。

それを内側から共有する、探求する、そのことでその人と真に繋がる、と言う実践。

この実践と理屈を共に進めて来た。

それを場と呼ぶ。

障害と呼ばれて来た領域に、実践的にこう言ったアプローチで入って行ったのは、僕が最初で、今でも見当たらない。

あと、もう一つはっきり言うべきことがあるが、そう言う違う見え方の人達に対して、型にはまらない、と言う言い方をしている人が多いが、これも勝手な理想化であり、偏見であり押しつけにすぎない。彼らは型にはまっていないのではない。型の種類が違うだけだ。こう言う安易な理想化、或いは何かを代弁させる行為が、逆に問題を生み出していることは、一例としてはアウトサイダーアート等が上げられるだろう。

 

そこに、別の種類の認識の世界がある。その人の心の中で確かに、存在して生きている世界。そんな世界は無数に存在している。しかも、人はそこに触れ、その世界を見ること、経験することさえ出来る。この観点からしか多様性には迫れない。つまり実際に多様な世界を経験し、体験した眼差しが必要だ。

もう一度繰り返す。

認識の世界。見ている世界は一つではない。

それはいくつも、無数にある。

しかも違う世界を共有することや、違う見え方を体験することも出来る。

そうやって、人は人を知り、人は人と繋がる。繰り返すが、これが僕の言う場と言うもの。何度も何度も違う書き方で書いて来たこと。社会が規定する世界が唯一のものではない。健常とか、普通にそれほどの根拠はない。数が多いことや、力が強いことが、良いことの証明にはならない。

自分が見ている世界だけがあるのではない。

 

無数の世界の存在を認めること。

 

今はいい加減な人達が多いけれど、現場で大事なことは観察、洞察。まず、良く見る、良く感じること。

目の前の相手を尊敬すること。

愛情を持てば、相手は見せてくれる。

愛情とは注意力だ。

分かる、分かっている、と言う驕りは相手の心を閉ざすだけ。謙虚にならなければならない。分からないから、分かろうとする、その心の動きが、人の心を開く。

関心と言う、感じようとする愛情が動くとき、ここから先を見せて良いかな、と言う相手の無意識が開く。入っていいよ、と。

そこで初めて、相手の世界が見える、感じられる。そこには違う世界が存在している。

違う見方が存在している。

そこで見る世界は、そこで見る風景は、これまで未知であったものだ。

 

多様性と言っただけでは、この世界の豊かさにかすることさえ出来ない。まして、たった一人の相手の気持ちなど分かるはずがない。

 

人と繋がる。

心と心が一つになる。

それは生命体の奥深い行為だ。

 

この世界は、無数の世界が無限に折り重なって出来ている。

それぞれの音を聴く。それぞれの風景を同時に見る。多様性とはこの世界の真の姿そのものなのだ。

 

アトリエでの制作の時間と言うのは、そのような本質に触れて行くことなのであって、アートがどうの、福祉がどうの、云々と言った、小手先のことではない。思いつきで騒ぎ回っている人達は、最初から必要なこととか、正しいことを決めつけている。

もっと謙虚になって、まずは観察から、そして洞察を深める。知らないで、経験しないで必要なことを判断するなら、押しつけになってしまう。それはまたしても自らの型にはめて相手を見ることになってしまっている。

厄介なことに多様性と言う記号だけで見ていると、敏感に感じ取ろうと言う心の動きにならない。世界観や解釈の前に人の心があり、そこに触れようとするかどうかなのだ。

 

この世界は多様で、豊かだ。

人の心は可能性に満ちている。

そして、人は輝き、響き合う存在だ。

感じること、感じ合うことによって、多様性へ初めて近づくことが出来る。

型にはまった見方から、目から鱗が落ちるように、世界が変わる。世界が開かれる。

気づきは直ぐそこにある。


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