急がば回れ
何度も書いてきたことだけど、何度でも書いて行こうと思うこと。
やっぱり、誰かは本気にならないと。
ちゃんと怒らないと。ちゃんと立ち向かわないと。
こんな世の中で良いはずが無いし、滅び行く世界にただただ指をくわえて見ているだけで、それで良しとは出来ない。例え結果は同じでも、やれることはやり切らないと。
戦略的にかなり大胆な動き方をしてきたこともある。
でもでも、実は相当慎重に進めてきた。
ほんの少しの違いが、大きな違いとなるから。
目先の欲に目が眩んで、コケて行く人達が沢山いたな、と今でも思う。
そこで飛びついたら、後はないのに、と残念な思いで見てきた。
ようやく形になったもの、未だに実現しないもの、色々あるけれど、ここまでの流れで、全て韻を踏んで来たからこそ、崩れない土壌が出来たのだ、と言うことは強調したい。
無理して強引に実現したものは、やがて綻びが出てくるものだから。
やるべきことを知ること、そして、やるべきでないことを自覚すること、更に時を見極めること。
今なのか、今ではないのか。
力技は通用しない。
文化を刻む。それが大切だ。
思えば、友人や先輩にはかなり名のある方々がいる。
何も出来ないが名前くらいなら貸せます、と言って下さる方もいる。
でも、それはやらなかった。
何故かというと、2つ理由がある。
1つはシンプルに、相手に失礼だと思うから。どんな理由をつけようと、立場ある人間の名前や権力やお金を利用してはいけない、と思うから。せっかく出会えて信頼し合えた人達を、僕は裏切りたくはない。
相手がそう思うかどうかに関わりなく。
そしてもう1つは、こっちの方が肝心なのだが、強い宣伝力とかお金やメディアを動かして、人の注目が集まるのは当たり前で、本当のところ現状の人々の心に届いているのか分からない。人の心に響く、と言うことが必要なことのバロメーター。そのバロメーターが機能しないで現状に見合わない人が集まってしまったとき、後々どうなるのか、と言うことだ。
お金とメディアを使って国が広めるブームが、そんなに長く続かないで、終わった後の廃墟は多くの人が目にしている事実だ。
理解が着いてきているのか、今本当に求められているのか、地道に、時にはひたすら待たなければならない。残念ながら自分の生きている間にはここまでは来ないだろうな、と言う幾つものこともある。
だからこそ、形に残し、何処を目指しているのか、後の世の人たちに伝わるものを。
これも前にも書いたけど、今ど真ん中でうけるものは1番最初に落ちて行くもの。旬を過ぎたもの。
100年後に残るものを、とやや過激に書いたが、その気持ちは活動の最初の頃からある。
100年後、今あるほとんどの団体の動きは振り返ってまるで響かないだろう。それも確かな事実だ。
新しい動きを始める時は、無理解に晒され、足を引っ張られる。前もそうだった。今もそうだ。
僕自身が自分の1番の快挙だったと思うことは、何かあると直感して、この道に賭けてみたこと。
何でもそうだけど、2番手、3番手は楽なもの。
リスクが違い過ぎるから。
開拓して行くことは過酷なことだ。
ジャンルとして確立出来るのか。仕事に出来るのか。
周囲に納得が得られるのか。全て一からだ。
誰も答えを持っていない。証明出来なければ一歩も前へ進めない。
今回始めた母川回帰シリーズと言う企画。これも今までにない新しい形のトークスタイルだ。
いつかは真意が伝わると思っている。
このまま終わってはいけない。未来の人類のためにも残して行くべき事がある。
挑戦は続く。